東京馬主協会のあゆみ

前史にかえて~日本の競馬のあゆみとともに~

現在の競馬のルーツともいえる「洋式競馬」がわが国で初めて行われたのは江戸時代末期、文久元年(1861年)の春のことでした。横浜の外国人居留地で居留外国人たちが始めたこの“競馬”を皮切りに、8世紀の初頭から宮廷儀礼の神事として、武士階級が権力を掌握した鎌倉時代以降はもっぱら武術競技として行われてきた日本の競馬は新たな歴史を紡ぎ始め、幕末から明治時代にかけては楕円形の馬場が各地につくられていきますが、治外法権的な立場にあった根岸競馬(主催団体を居留外国人が経営していた)を除いて、刑法に抵触する馬券の発売は認められていませんでした。
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明治初期の横浜居留地競馬場の風景。明治中期まで主体となったのは日本馬と支那馬で、体高は150cm以下の馬が中心だった。
しかし“日本競馬の父”としてその名が現在にまで語り継がれている安田伊左衛門氏は加納久宣子爵と二人三脚で、「日本の馬匹改良に資するため」という信念のもと、欧米諸国と同様、馬券の売り上げで興業的に成立する競馬開催の実現に向けて精力的な活動を展開。これが功を奏し、また、日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37~38年)を通じてわが国の軍馬の改良増殖の必要性が痛感されたことも踏まえ、政府は明治39年(1906年)、閣令を公布して政府が認める団体に限って「馬券の発売を伴う競馬の施行を黙許」することとします。

これを受けて安田氏、加納氏らが同年に創設したのが「社団法人東京競馬会」という競馬の開催団体でした。明治39年4月、同会が東京の池上競馬場で開催して大人気を博した第1回目の競馬は、日本人の経営による主催団体が馬券の発売を伴う競馬を初めて開催し、国民的レジャーとして認知されるようになった今日の発展への礎を築いたという意味で、日本の競馬の“夜明け”と位置づけられています。

私たち東京馬主協会は、この東京競馬会の流れを汲む由緒あるオーナーズクラブです。その後訪れた馬券禁止時代(明治41年~大正12年)に全国の主催団体の統合整理が行われた際、他の団体と統合合併して「東京競馬倶楽部」と名称を改めてからも、我々の先人たちは日本の競馬を守り立て、リードする役割を果たし続けてきました。

安田伊左衛門氏
「日本競馬の父」「日本ダービー生みの親」と讃えられる日本中央競馬会初代理事長。

政府からの補助金を頼りに細々と競馬が開催されていたこの馬券禁止時代、安田氏率いる東京競馬倶楽部では各倶楽部の代表馬を集めた企画レースを創設(=優駿内国産馬連合競走。明治44年)したり、実質的には景品付きの馬券といえた「景品付抽選券」発行の許諾を得て(大正10年)、この効果により目黒競馬場は連日大盛況となるなど、廃れかねなかった競馬人気を支えています。大正12年(1923年)、馬券復活に心血を注ぎ続けた安田氏の情熱がついに実り、競馬法の公布によって馬券の発売が正式に認められると、安田氏は本格的な競馬の調査研究のためにオーストラリアへ出向き、当時としては画期的だったバリヤー式発馬機を導入。さらには「時期尚早」とする周囲の反対を押し切って「東京優駿競走(日本ダービー)」を創設(昭和7年)し、目黒にあった競馬場を府中へ移転し、東洋一の規模と威容を誇る新たな競馬場を完成(昭和8年)させるなど、現在の競馬の“柱”となっている大きなプロジェクトを次々に実現させました。
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東京競馬倶楽部が競走を主催していた目黒競馬場。立すいの余地もないほど観客が詰めかけている。この背景には景品付き抽選券の存在が大きく関わっている。
一般に「倶楽部競馬時代」と呼ばれるこの時代、競馬開催の主導権は各競馬倶楽部が握っており、主催者の役割も兼ねていた馬主は──安田氏がそうだったように──競馬を盛り立てる演出家でもありました。その自由闊達な主体性に惹かれ、各倶楽部には各界の名士が集まりましたが、理事会は入会希望者の人格、識見、財力、社会的地位等の資格条件を厳しくチェック。東京競馬倶楽部の入会審査はとりわけ厳しく、文壇の大御所的な存在であったあの菊池寛ですら、入会をストレートには認められなかったといいます。「キング・オブ・スポーツ」ならぬ「スポーツ・オブ・キングズ」、すなわちもともとは王侯貴族のレジャーとして発展を遂げた歴史を持つ英国のように、馬主であること、なかでも東京競馬倶楽部の会員であることは、それだけでステータス・シンボルとみなされたのでした。
その後、戦局の激化により、東京競馬倶楽部は他の競馬倶楽部と同様、国家が統制管理する日本競馬会に吸収統合される形で解散(昭和11年)に追い込まれ、競馬主催者としての馬主の地位も失われてしまいましたが、“日本の競馬をリードしてきたオーナーズクラブ”としての誇り、そして競馬を支えている大黒柱は馬主であるという自負は、オーナーシップは、現在に至るまで連綿と受け継がれています。

創設から現在に至るまで

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帝国競馬協会
ダービーの年に開館したクラブ時代の全国組織「帝国競馬協会」の競馬会館

戦局の激化によって停止されていた競馬の開催(日本競馬会の主催によるもの)が東京、京都の両競馬場で再開されたのは昭和21年(1946年)10月17日のことでした。その前日には戦時中に存在していた各競馬場ごとの振興会にかわる新たな馬主団体として、関東競馬振興会(翌年、東日本競馬振興会に改称)、関西競馬振興会(翌年、西日本競馬振興会に改称)という2つの社団法人が設立の認可を受けています。しかし翌昭和22年(1947年)、GHQが「独占禁止法に抵触」するうえ「軍国主義的国策に協力した」として、日本競馬会をはじめとする競馬主催者の解散と役員の公職追放を要求、その対抗手段として農林省が「競馬の国営化」という奇策をとったことから、馬主たちの間には先行きに対する不安感が広がり、昭和23年(1948年)8月には東日本競馬振興会の一部幹部と馬主有志が「関東馬主倶楽部」という新たな組織を設立、自らを交渉当事者と認めるよう、政府に迫りました。

とはいえ、事態の収拾に乗り出した農林省の斡旋により、東日本競馬振興会と関東馬主倶楽部は統合して新たな馬主組織をつくることとなります。こうした経緯をへて昭和24年(1949年)12月13日付けで設立されたのが社団法人東京競馬場馬主協会(現・東京馬主協会)、つまり本会でした。
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東京馬主協会初代会長、栗林友二氏。同氏はミスター・ケイバと呼ばれた馬主の第一人者。

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第5代会長、田中角栄氏。政務多忙のため在任期間は8ヶ月であった
昭和24年から昭和25年にかけて、東西の競馬振興会とそれぞれの支部は本会のように、各競馬場の名を冠した社団法人の馬主協会に改組されていきます。すなわち、東京、中山をはじめ、札幌、函館、福島の各競馬場と西日本(昭和43年に京都、阪神の2協会に分離)、九州国営競馬(小倉)の各馬主協会がこの時期に設立されています。

それらの馬主協会が集い、馬主共通の問題を話し合う全国組織として、昭和26年(1951年)7月には現在の日本馬主協会連合会の前身的な組織にあたる全日本馬主協会連合会(全馬連)が結成されます。一方の各馬主協会は「馬を愛する同好の士が集う親睦団体」としての性格を強めていきますが、そのなかにあって本会は“リーディング・オーナーズクラブ”としての個性と存在感を発信し続けてきました。

本会の歴史において「アイデンティティ確立期」と位置づけられている創設(昭和24年)から昭和43年までの時期に、会長や理事の重職を担った人々の横顔を見てもそれは明らかで、初代の会長には戦前からの馬主界の第一人者で「ミスター・ケイバ」と呼ばれた元祖(後年、“ミスター競馬”の愛称で親しまれた野平祐二騎手は2代目にあたる)の存在、栗林友二氏が就任。昭和27年には政界の実力者として知られた河野一郎氏、大野伴睦氏が本会の理事に加わっています。2代目の会長を務めた永田雅一氏は「映画界の父」と呼ばれ、プロ野球球団のオーナーとしても知られた人物、3代目会長の鈴江繁一氏は馬主の主体性と権益を守るための活動を積極的に展開し、いわゆる「賞金6パーセント枠」の合意を日本中央競馬会との間でかわすなど、数々の実績を残しました。さらに運営審議会委員としても活躍した第4代会長、川端佳夫氏の後任として、第5代会長には田中角栄氏が就任。政務多忙のため、約8か月間という短い在任期間(昭和41年3月~12月)で会長職を辞した田中氏ですが、6年後の昭和47年にわが国の首相に就任したことはご存知の通りです。また、田中氏の途中辞任を受けて第6代会長に就任した藤田正明氏が、後に参議院議長の要職を務めたこともよく知られています。
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一般の競馬ジャーナリズムとは一線を画し、競馬界の動きや課題を正面から取り上げた「会報」の創刊号。
そのような背景もあって競馬サークルにおける“発言力”を強めていく一方では、会員の快適なオーナーライフをサポートするための活動にも力を注いできました。昭和45年(1970年)に発足した「委員会制度」もそのひとつで、スタート時の広報、親睦(現・研修委員会)、賞品、福祉、総務の5委員会にはその後、図書委員会(現在は広報委員会に統合)、馬場、馬房(現・苦情処理委員会)委員会、さらに入会資格審査委員会が加わり、現在では8委員会制度が確立されています。このうち広報委員会では昭和45年(1970年)6月に月刊機関誌「東京馬主協会々報」を創刊。数々の主張や問題提起が行われ、競馬サークル全体に多大な影響力を発揮することになったこの機関誌は、第1号の発刊から24年後、平成6年(1994年)9月の第292号をもって発展的に廃刊され、現在の季刊機関誌『OWNER SHIP』に引き継がれました。タブロイド版だった従来に対し、内容をいっそう充実させたうえにカラー写真やイラスト、図表などを多用、ビジュアル性が加わったこの『OWNER SHIP』は、名実ともに競馬サークルのオピニオン誌と位置づけられ、現在に至ります。また、高齢者や身体が不自由な会員のためのシルバールームの新設、馬主のパドックへの立ち入り、3階馬主席の全面改修等が実現に至ったことも、委員会制度の結実といえました。
“力を注いできた”といえば社会福祉活動にとりわけ熱心に取り組んできたことも本会の特色のひとつで、他の馬主協会よりいち早く平成5年(1983年)に専門の福祉事務局を設置。これを機に福祉の現場の徹底調査を行った結果、法人格を持たない小規模事業所、いわゆる無認可施設が国の補助金等も受けられずに困窮している実態が判明したことを受け、平成6年(1994年)から全国の馬主協会に先駆けて小規模作業所への助成を開始、のみならず昭和44年(1969年)に日本馬主協会連合会によって設立されて以降、“馬主による組織的な社会福祉活動”の中心団体となってきた「財団法人中央競馬社会福祉財団」(1995年に財団法人中央競馬馬主社会福祉財団と改称)にも民間の小規模施設を重点に置いた新しい助成の形を働きかけ、これを実現させました。ちなみに本会による助成実績は平成18年(2006年)度までに約84億6230万円、助成件数は2545件にのぼるうえ、平成14年(2002年)には事業費に福祉事業費を予算化。社会福祉事業への注力をますます加速させてきました。

こうした取り組みはある種の使命感──馬主の立場から競馬を通じて社会に貢献するという──の決意表明であり、それもまた“オーナーシップ”のひとつです。美しい馬の魅力に惹かれた同好の士が集う親睦団体としての性格はもとより、競馬サークルの先端を走り続けてきた由緒あるリーディング・オーナーズクラブとしての誇りを胸に、私たちはこれからも、競馬と、社会と向き合っていきます。

馬主協会の社会福祉活動について

馬主が競馬を通じて社会に貢献できることはないか――日本が高度経済成長を遂げ、中央競馬の売り上げも右肩上がりに伸びている昭和40年代、個々の馬主、あるいは馬主協会では、社会貢献に真摯に取り組んでいこうという機運が高まりました。

競馬を主催する日本中央競馬会は、日本中央競馬会法によって「国庫納付金のおおむね4分の1に相当する金額を社会福祉事業の振興のために必要な経費に充てなければならない」(第36条より)と定められ、いわば社会貢献事業があらかじめ組み込まれています。
しかし、この事業は見えない形の社会貢献活動であることから、馬主および馬主団体の中から自分たちの手で、しかも目に見える形で社会福祉に貢献したいという機運が生まれたのです。

こうした動きを受け、1969(昭和44)年10月31日、日本馬主協会連合会により設立されたのが「財団法人中央競馬社会福祉財団」(1995年に財団法人中央競馬馬主社会福祉財団に改称)です。それまでも、レースに優勝した馬主が個々に賞金の一部を社会福祉事業に寄付する、ということは行われていましたが、これを馬主個人の善意に依存するだけでなく、全国の馬主協会自らが賞金等の中から拠出して“組織的に社会福祉事業に取り組む”という決意のもとに同財団は誕生したのです。

この事業の原資には競走事業費の中の「馬主協会賞」が充てられています。この賞は中央競馬の全レースで、出走した馬が3着までに入った場合、その馬主が所属する馬主協会に対し交付されるもので、馬主協会から日本馬主協会連合会へ、さらに中央競馬馬主社会福祉財団へと受け継がれます。このような、馬主が拠出する基金で成り立っている社会福祉の助成機関は世界でもあまり例がありません。

国内で社会福祉施設へ助成する民間団体のうち、同じ公営競技の日本財団(競艇)、日本自転車振興会(競輪)とともに同財団は大きな柱を形成しています。
前2団体が国の助成に近いマクロ的な助成がほとんどであるのに対し、同財団では民間の小規模施設を対象に重点を置いているのが大きな特徴です。このような助成の形を強く働きかけたのは、東京馬主協会でありました。

東京馬主協会では1993(平成5)年、全国にある10馬主協会の中でいち早く専門の福祉事務局を設けるなど社会福祉方面の活動にも力を注いできました。

景気の低迷で現在、競馬サークルを取り囲む環境は、以前のように活気があるものではありません。年々賞金も減額されているのが現状です。長い年月を経て培ってきた社会福祉事業であり、このような時代を迎えているからこそ、より一層、力を注いで、社会貢献の一助となっていきたいと考えております。

今後も社会福祉協議会等との密接な関係を維持しつつ、小規模作業所援助に重きをおいた、心の通う社会福祉活動を進めていきたいと考えております。
当協会の現在の福祉活動については、下記のリンクよりご覧いただけます。
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